学校では教えてくれない日本語の秘密

学校では教えてくれない日本語の秘密

学校では教えてくれない日本語の秘密


通勤用に京都市図書館で借りてきたのだが、1日で読み終わってしまった。
200ページ弱ということと文字が少し大きめだったということもあるが、そんなことよりも内容があまりにも衝撃的だったのだ。


本書冒頭に次のようなエピソードが紹介されている。
小学生が学校のテストで「地面」を「ぢめん」と書いて×にされてしまった。先生になぜ「じめん」と書くのかを質問したところ先生がたじたじになり「それは決まりだから」と答えてしまった、というものだ。
タイトルに「学校では教えてくれない」とあるように、なぜそのように書くようになったかという理由が解説されている。
この例でいうと実は日本人はずっと地面を「ぢめん」と書いてきた。それを「じめん」と書くようになったのは戦後「現代かなづかい」が公布されてかららしい。
「現代かなづかい」とは、例えば「にほひ」と書いて「におい」と発音していたものを、今後は発音と同じように「におい」と書くようにしましょう、という新しいルールのこと。理由はその方が効率的だからというものらしい。
しかしそうすると日本語にはヂとジのように同じ発音が存在するため、どちらを用いればいいのか分からなくなってしまう。そこで定めたルールというのがこれ。

二つの言葉のつらなり(=連合)で生じた「ジ/ヂ、ズ/ヅ」は「ぢ・づ」で書く

つまり「鼻血」は「鼻」と「血」の連合だが、「地面」は「地」と「面」の連合ではないらしい。よく分からん。。もっというと「はなぢ」というのは血だから「ぢ」だったのではなく連合だったから「ぢ」なんだということ。意味不明だ。。ちなみに現代かなづかいの前に用いられていた歴史的仮名遣いでは単純明快で「血」だから「ぢ」、「地」だから「ぢ」というルールだったそうだ。
他にも「大詰め」と「差詰め」も、歴史的仮名遣いの場合だと「詰(つ)める」だから「おおづめ」「さしづめ」と書いていた。しかしながら現代かなづかいでは「おおづめ」と「さしずめ」らしい。。。
現代かなづかいの矛盾はそれだけではない。本来発音と同じように書きましょう、というのがルールのはずが、そうなっていないものが含まれる。そう、「は」や「へ」等である。実はこれらは歴史的仮名遣いのものがそのまま残ったもの。
本書の例を引用すると「顔を被う覆い」を発音と同じように書くと「かおおおおうおおい」となり、どこが切れ目かよく分からない。これを歴史的仮名遣いで書くと「かほをおほふおほひ」となり、比較的切れ目がはっきりする。
そこで議論の結果、助詞の「を」「は」「へ」については例外的に歴史的仮名遣いを残すことになったそうだ。中途半端な。。


実は漢字も同様に大変なことになっていた。
現代かなづかいと一緒に公布された当用漢字というものがある。これは漢字が多いから今後は1850文字に限定しよう、というもの。あわせて読み方も色々あるから制限してしまえという余計なものまでついてきた。理由はお察しの通り、その方が効率的だからということらしい。
しかしこの「当用」というのが曲者で、これは「さしあたって」という意味。実は最終的に漢字を全廃するという思惑があって、それを前提にとりあえずの最初のステップとして1850文字にまで削減しようというものだったらしい。
ちなみに漢字を全廃した後の候補はローマ字かかなだったらしい。だから義務教育にローマ字学習が組み込まれていたとか。恐ろしや・・・
で、その当用漢字だが文字や読みが限られるため、当然支障が出てくる。
まず読みだが、「魚」というのは音読みは「ギョ」で訓読みは「うお」しか許されなくなったらしい。そのために「魚屋」というのは「うおや」と読まないといけなくなったとか。当然それだと困るので「さかな屋」と書かないといけなかったらしい。
次に漢字だが「かんじん」というのは昔「肝腎」と書いていたらしい。これは「肝臓と腎臓が特に人体にとって重要な臓器」という意味から転じて「重要なこと」をあらわす言葉になったのだが「腎」という字が当用漢字から外れてしまった。そこで当用漢字に含まれるもので代用を検討した結果「心臓」も同じように大事だろうということで「肝心」となったらしい。
こうして代用漢字というものが続々と出現してくる。「さんすい」は「散水」と書くが昔は「撒水」と書いていたらしい。「撒」の方は手偏がついているので、人間の手による目的意識を持った行為であることが分かる。しかし単に「散」だと葉が散るようになんだか自然現象のような感じをうける。
このように代用漢字のせいで微妙なニュアンスが伝わらなくなっている。。


とまぁ本書の例を色々引用してみたが、戦後に改変された日本語というのはひどいの一言に尽きる気がする。果たして本当に効率的になったのだろうか。甚だ疑問である。若者の日本語の乱れが云々とよく聞くが既に日本語自体が乱れているじゃないか。
これがプログラミング言語なら中途半端だし別の言語を使おう、と取替え可能だが母国語はそうはいかない。やはり変えていいものと変えてはいけないものが存在するのだ。
いっそのこと歴史的仮名遣いに戻した方が理論的だしすっきりするのではないか。それこそ当用かなづかいとかを公布して最終的に歴史的仮名遣いへの回帰を前提に、とりあえず「地面」を「ぢめん」に変えるようなことをしてみたらどうだろう。助詞の「は」や「へ」のように発音と書くものが別々でも特に違和感なく使えているのだから、意外と歴史的仮名遣いへの回帰というのは無理なことではないのかもしれない。。