簡潔さ

自分の部署の新人君にプログラムの指導をしていると、さすがに簡潔なプログラムがほい、出来たとはなかなかいかない。
リファクタリングと銘打って、プログラムの改善をして見せる。こういうのをやると、自分も成長したもんだとしみじみと思います。特に学生の頃はさっぱりプログラミングが出来ずに苦労したもんで。。
プログラムを書くようになって、簡潔さというのは偉大だ、と改めて思う次第であります。
プログラムの話ではないですが、文語文というのも非常に簡潔なのです。

完本・文語文 (文春文庫)

完本・文語文 (文春文庫)


最近読んでいる本ですが、タイトルからも分かるように文語文について書かれています。といっても全編文語文のことではないですが。
例えば、聖書のくだりなんかは文語文と口語文の比較があって面白い。まず文語。

昼の十二時より地の上あまねく暗くなりて、三時に及ぶ。三時ごろイエス大声に叫びて「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言い給ふ。わが神、なんぞわれを見捨て給ひしとの意なり。

これが口語文になると、

昼の十二時から地上の全面が暗くなって、三時に及んだ。そして三時ごろにイエスは大声で叫んで「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか、という意味である。

文語の方がやっぱり簡潔です。文末の言い切り方とかがそう感じさせるのか。リズムがあって、声に出して読んでみるとなぜだか文語文の方が力がこもる。大河ドラマの役者さんみたいになっちゃう。w
ここで例示した文語文はまだ意味が分かるのですが、読んでも意味が分からないものも非常に多く、同じ日本語でありながら、明治初期以前とその後で隔たりを感じずにはいられません。
「祖国とは国語」という有名な言葉がありますが、国語自体が変わったということは、明治初期までと明治後期以降では日本という土地に住んでいながら国が違うのかもしれませんね。
最後にぐっときた文章を引用。

旧幕のころの遣米使節一行が皆々敬意を表せられたのは四書五経のバックボーンがあったからである。彼らは折にふれ歌を詠み詩を賦している。芸術ではない、たしなみである。言うまでもない最も学ばなければならないのは国語なのである。シオランという当代の碩学の言葉を繰り返してあげたい。
私達は、ある国に住むのではない。ある国語に住むのだ。祖国とは、国語だ。それ以外の何ものでもない。